中途障害者の生きがいづくりの場 工房「羅針盤」・第2工房「羅針盤」・らしんばんの家

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聴いてよ!わたしたちの思い みんなの主張コンクール

大阪府高次脳機能障がい支援普及事業
2012年 大阪府高次脳
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知ったはりますか?高次脳機能障害のこと。浜村淳&桜井一枝チャリティーライブ
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聴いてよ!わたしたちの思い みんなの主張コンクール
せっかく助かった命、負けたらあかん
当事者の声

 私は、障害を持つ前は、夫と一緒に電気工事関係の小さなお店を営んでいました。細々ながらも夫と二人、古くからのお得意様を中心に仕事をしてきました。

 しかし、平成12年の12月ごろから夜遅くまでの仕事が続き、その上、親戚の不幸が重なり、私の体は徐々に病気におかされ始めました。はじめは、疲れがたまっているのだろうと考え、病院にも行きませんでしたが、年が明けた平成13年1月13日の夜、眠ると同時に意識がなくなりました。その後、救急車で病院に運ばれ、緊急手術が始まりました。病名は脳出血でした。その間、生死の境をさまよい、私が意識を取り戻したのは、倒れてから2週間後の病院のベッドの上でした。

 意識を取り戻したと言っても、自分がどこにいるのか、何もわかりません。ベッドのそばで必死に看病してくれている主人の顔を見ても、誰だかわかりません。脳出血のため記憶障害になってしまったのです。障害はそれだけではありませんでした。右半身麻痺と言語障害も負いました。しゃべりたくても一言も言葉が出ません。動きたくても動けません。自分がどこの誰かもわかりません。何もできない、わからない、しゃべれない。私は今までに経験をしたことのない絶望の淵に立たされていたのです。これが、この先1年7ヶ月に及ぶ入院生活の始まりでした。

当事者の声

 最初の頃の私は、毎日が地獄で生きる気力も何も湧いてきませんでした。「いっそうのこと死んでしまいたい」とばかり考えていました。しかし、家族や病院の人たちのすすめで、私は「以前の体を取り戻したい、もう一度働きたい」という一心で、リハビリ訓練を一生懸命がんばりました。とてもしんどかったし、辛いこともいっぱいありましたが、今の私にできることは、これしかない。生きる目標は、昔のように仕事をして社会に復帰することでした。それから、訓練の成果も現れ、少しずつ言葉もしゃべれるようになり、寝たきりのベッドから椅子に座ることができました。


 しかし、1年7ヶ月後に病院を退院して家に帰った私を待ち受けていたのは、厳しい現実でした。長年住んでいた我が家の記憶がなく、知らないところへ連れてこられたという想いで、玄関の前で泣き崩れてしまいました。それが自宅での生活の第1歩でした。退院をしたといっても、夫の助けがないとトイレに行くことすらできない状態でした。夫は、私の看病に時間をつぎ込んだ代償として仕事が減り、永年守ってきた小さなお店も傾きかけていました。私が働けない体になったために、夫にまで迷惑をかけてしまっている。そんな自分が嫌で嫌でたまりませんでした。


 「何で私だけがこんな辛い目にあわなあかんねん。まじめに生きてきたつもりやのに…」。何のために生きているのかを、問いかける毎日。情けない、本当に自分が情けなかったです。拭いても拭いても頬を伝わる涙はとまりませんでした。そんな私を気遣い、近所の人たちが声をかけてくれるのですが、その人の顔すら思い出せず、まるで見知らぬ人から突然話しかけられたみたいに怯えていました。次第に私は、こんな自分の姿を見られたくないと想い、閉じこもりの生活を送るようになりました。

以前の体を取り戻したい、もう一度働きたい

 出口の見えないトンネルを彷徨っていたとき、夫が介護サービスを受けられる施設の利用をすすめてくれました。少しでも外に出て元気になるようにとのことでした。しかし、私は障害者になったけれど、働きたいとの強い想いがありました。仕事をすることが何よりも好きでした。生きがいでした。もちろん介護が必要な体になった以上、元気だった頃のようには働くことができませんが、私はもう一度挑戦したい。そんな思いを捨てられませんでした。しかし、周りの人からは「障害が重いのに働かれへん。働かしてくれるところもない」と言われ、相手にされませんでした。

 私自身も半ば諦めかけていたとき、工房「羅針盤」という中途障害者の作業所のパンフレットをもらいました。私はすぐに電話をして、見学をして、そして通うことにしました。昨年の4月のことです。「中途障害者の生きがいづくりの場」。これこそが私の探し求めていた場所でした。作業所では、私と同じような病気で、同じような障害を負った人たちが楽しそうに「仕事」をしていました。話し声が聞こえる。笑い声が聞こえる。私より障害が重い人も普通に働いているのを見て、とても驚きでした。利用してまだ1年しかたっていませんが、みんなから「働けない」といわれた私が、今、毎日働いていることに自分でも信じられません。作業所に通うことで目標ができ、そしてそれが励みになっています。

当事者の声

 私は病気で倒れて7年目で、やっと作業所という自分の居場所を見つけました。しかし、まだまだ私のような、人生の半ばで、ある日突然、障害を負った中途障害者の人たちが大勢います。そして、以前の私のように人生を悲観して、せっかく命が助かったのに、活かされないままになっている人たちのためにも、作業所を大きくしていきたいと思っています。それが今の私の大きな目標です。

当事者の声

 2人の孫が時々家に遊びに来て、私の手を引いて、ゆっくりと一緒に歩いてくれます。私が1歩すすむと孫も1歩すすみます。「おばあちゃん、がんばって!」と声援を送って、いつも私の動作にあわせて励ましてくれています。季節がめぐり、いつの間にか大きくなった孫の手を握って、今は「本当に生きてて良かった」と実感している毎日です。

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